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自死という生き方 覚悟して逝った哲学者 須原一秀

月下燕の日記」の「月下燕」さんの「後期高齢者医療バッシング小考」の記事(オススメ)を読んで、少し前に読んだこの本について語りたくなったので、自分の中でまだまだ考えがまとまってはいないのでですが記事にしてみました。

自死という生き方―覚悟して逝った哲学者 Book 自死という生き方―覚悟して逝った哲学者

著者:須原 一秀
販売元:双葉社
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部屋主の独断ランク:A

内容紹介のようなもの

平常心で死を受け入れるということは本当に可能か?

 それはどのようにして可能か?」(本文より)

人生の果実は十分味わった

 65歳の春。

 明朗で健全で、

 そして平常心で決行されたひとつの自死」(帯より)

老いと死へと歩む私たちの必読書」(帯より)

この死者を見よ―「新葉隠」との対話 浅羽通明

1章 三島由紀夫、伊丹十三、ソクラテス、それぞれの不可解

2章 なぜ彼らは死んだのか?

    ソクラテスの場合

    三島由紀夫の場合

    伊丹十三の場合

    老衰も自然死も嫌だ―それぞれの苦境

3章 「未練」と「苦痛」と「恐怖」

    「極み」の理論

    彼らは「苦痛」、「死そのもの」、「死後」への危惧ないし恐怖をどのように克服したか?

4章 死の能動的受容と受動的受容

    五段階説

    観念的知識と体感的知識

    「二人称の死」と「三人称の死」

5章 自然死と事故死と人口死

    自然死は悲惨―専門家の見解

    虚無主義と厭世主義

    受動的自然死派の人々

6章 武士道と老人道

    ヤクザ、武士、老人、それぞれの苦境

    人生は恋人

    「葉隠」―日本人の聖典

7章 弊害について

    自由は怖い

    共同体

8章 キューブラー・ロス―キリスト教徒の苦境

9章 補助的考察

    神秘、大いなる存在、魂、あの世、神、など

    虚無主義にも厭世主義にも関係のない「人生を肯定する自死」

10章 雑感と日常

    雑感

    日常生活

最後に 父の自死について 須原純平

なお、この本は「新葉隠 死の積極的受容と消極的受容」として書かれた原稿に、解説やご家族の言葉を加え改題したものです。

感想

正直かなり難しいです。内容ではなく評価が。

非常に考えさせられる部分が多く、今後の日本や世界の方向性を考えていく上で重要な要素となる「自死」という考え方が提示されている一方、つっこみどころも満載で、部屋主個人として気に入らない部分も多いからです。

特に「極みの理論」はどうにも部屋主には納得いかないというかしっくりこなかったです(このあたりは論理よりも感情による部分の問題だからかも知れません)。

この「極み」自体どうにも理解しかねますし(部屋主自身この本で極みに達しにくいと書かれていたこだわりの強い人間でありますし)、別に人生の「極み」なぞ味わってなくても死にたくなれば死ねばいいというのが部屋主の考えであるからです(とはいえ、そこに到るまでにしっかりじっくり考えるということが条件です。なお、この本は決して安易な自殺を奨励してません)。

という部分もあれば、「武士道」に関連付けて「老人道」なる考えを提示してあるのですが、それがまた実に興味深く、そして楽しかったりもするわけです。

良いにしろ悪いにしろ考える幅を増やしてくれるという点は非常に評価できると思いますので色々と思うところはあるものの「A」ランクにさせてもらいました。

抜粋

「『自然死』のほとんどが悲惨なものであり恐ろしいものであるにもかかわらず、世間にはなぜか『穏やかな自然な死』とか、『眠るような老衰死』という神話のようなものがあるが、それは間違った思い込みであることを問題にしているのである

この辺りに関しては「カテゴリ1:死・高齢者問題」のところにある他の本を参照してもらえればよいかと思います。

「『死ぬべき時に死ぬ自由を保持しておくことが人間的精神の偉大さと明朗さを確保するための条件である』ということになると思う。そうである。人間は死ぬべきときに死ねるという確信を据えてはじめて、気持ちに雄大さと明るさとがそなわってくるのである

雄大さや明るさはともかく、人間の人間たらしめる条件のうちの一つがこの死に臨む自由だと部屋主は考えております。

彼は『何か』から逃げたのではなく、自分の『何か』を維持しようとしたのではないだろうか。彼は自分のどうしようもない運命をどうしようもないままに放置したのではなく、なんとか自尊心を維持しつつ主体的に乗り越えようとしたのではないだろうか。

つまり、武士道も老人道も、どうしようもない運命の中で共同体を意識して、共同体の認める価値のために―武士道では『武人の名誉』の形で、老人道では『主体的人間の自尊心』の形で、ついでに『禅譲』、『節税』、『福祉』も意識して―死んでいくのであるから、どちらも基本的には同じものである。つまり、どちらも何かから逃げたのではなく守ろうとして死んで行くのである。

したがって、『老人的自死』は共同体からの逃避ではなく、共同体内で共同体の構成員として立派に生き続けていくために絶対に必要な『自尊心』と『主体性』を、最後まで維持し続けるための『共同体内での生活の一環』と見ることが出来る。したがって、共同体の側から見れば、共同体の成員が保持すべき価値かつ徳である『主体性と自尊心の保持』に殉じて死んで行く形となる。

ということは、共同体の側も『老人道的自死』に対して、一定の敬意を表すべきであり、『自決』という名前に値する行為とみなすべきである

さて、最初の「月下燕」さんの記事と関連して言いたかったところがここです。

この本の本文では「ついで」扱いですが(本のテーマを考えるとそうなるのは当然なのですが)、部屋主はこの「ついで」にあたる『禅譲』『節税』『福祉』に関してが、今後の日本や世界を考える上で非常に重要であると思っています。

今の日本の老人には、こういう考えを持っている人は非常に少ないように感じているのですが、ここを見ている皆様はどうでしょうか?

少なくとも部屋主の周りには全くといっていいほどいませんし、「後期高齢者医療制度」に関するバッシングの激しさがその証明になるのではないでしょうか。

部屋主たちの世代は幼い頃から「人に迷惑をかけないように」と教育されてきたように思います。

少なくとも部屋主自身はそうですし、人に迷惑をかけた場合の社会的非難の強さは、皆様も勢いを増すばかりにように感じているのではないでしょうか。

そんな中で人に迷惑をかけても大丈夫な人達がいます。

そう老人です(もちろん社会の役にやっているし、自分たちでしっかりとやっている老人もいるとは思いますよ)。

多くの預貯金を持ちながら、自分達が支払った以上の多額の税金と人的資源を投入され(「世代間最終戦争」という本を読めばいかに世代間格差が大きいかが理解できると思います)、それでいてまだ不満タラタラというから驚きます。

別に自殺しろというわけではありませんが、自分達のことばかりでなく次の世代のことも考えてみてほしいものです。

また、自分のためや次の世代のために自決する自由を容認する社会を作ってみてはどうかと思います(この本ではこのような部屋主とはまた違う理由ですが、老人の自決を認める社会について書いてあるので是非とも読んでほしいです)。

以上、時間をあまりかけられなかったので微妙な記事となってしまったのが少々残念ですが、とりあえずつぶやいてみました。

他にも認知症などと関連して色々と思うこともあるのですが、これ以上に考えがまとまってないのでここでは控えておき、また別の本の記事の時にでも語っていければと思います。

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コメント

かなりハードな内容のようですね。
老いとか老後とか介護とかちゃんと考えなきゃと思いつつも、
つい、目の前にある事をこなすので精一杯になってしまいます。
うーん・・・

投稿: カレン | 2008年7月 3日 (木) 17時32分

>カレンさん
内容はまずまずハードですが、
語り口は非常に軽妙でむしろ面白くくらいです。
老後に介護は若いうちから考えておかねばならない、
最近つくづくそう思います。

投稿: シン@部屋主 | 2008年7月 4日 (金) 20時15分

古代ローマでは、自分がもはや老衰して人々のための役に立たないと思うと物を食べずに餓死するという風習が貴族階級にはあったといいますが、まぁ今の世の中ではなかなかそんな人もいないでしょうから、医学が発展すればするほど終末医療のコストは高くなり続ける一方ですよね。
 ただ自分なんかには身内におばあちゃんやおじいちゃんがいないからあれなだけで、身内にいるとどんな事をしてでもと思ってしまうのも分かるし、お金がないと助けられないなんて不公平だと思うのも理解できます。実際問題、医療費がもう少しというかもっともっと安くならないものでしょうか。高いから税金を投入、儲かるからより高くというような悪循環も見えるのですが。

投稿: 樽井 | 2008年7月 4日 (金) 23時25分

>樽井さん
医療費の問題は確かにあるのですが、
なんというか自分自身の問題でもあるのですよね。
人生の死に時をどこで決めるか。
どの時点で自分が迷惑をかけはじめるか。
その範囲をどの程度容認するか。
そして認知症。
どの時点まで自分は人なのか。
人の条件とは何のなのか。
となると知的障害との問題も発生しますし。
まだ自分の中で答えが全くでして・・・

投稿: シン@部屋主 | 2008年7月 5日 (土) 21時20分

私のほうはシンさんおすすめの
『日本人の死に時』を読んでいるところです。
長生きは必ずしもハッピーなものではなく
多くは心身ともに痛い苦しい辛さを延々と
味わされ続けている長寿社会のリアリティを
かみしめています。
本書の帯にある「人生の果実は十分味わった」
という感覚には共感できる気がします。
苦役のごとく"生き続けなければならない"とすれば
それが尊厳ある生、尊厳ある死といえるのか
考えさせられます。

投稿: 月下 燕 | 2008年7月 6日 (日) 19時17分

>月下燕さん
そちらも読んでいただきありがとうございます。
最近そういう本を多く読むようになり、
長寿社会の問題点がかなり浮き彫りになってきた感じがします。
個人的にはあとは家族を介護したり、
介護現場で働いている人の書いた本あたりを読んでみたいです。
まぁ私も今そういうところで働いていたりしますので、
色々と思うところがあったりするのですけどね。

「死にたい死にたい」と言いながら、
家族に迷惑をかけ生きていくことに意味があるのだろうか、
そしてそう言っている家族を
無理やり引き止めることに意義があるのだろうか、
と、ここのところかなり悩んでいます。
人として尊厳ある生、そして死を迎えるために、
人生のかなり早い段階からそれらのことを考えて
しっかり歩んでいくことがまず必要だなと
今のところは考えています。

とりあえずこの本はつっこみどころも多々あるものの、
読んでみて損はないと思います。

投稿: シン@部屋主 | 2008年7月 6日 (日) 23時42分

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